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「イスラーム世界の少年愛」
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■イラン


史料は、同性間の性的関係が原初期のテュルク系征服者アフラースィヤーブ(トゥラーンの伝説的英雄)とその遊牧集団がもたらされたという。アフラースィヤーブの征服した地元住民は「不自然な悪癖」といって大いに衝撃を受けたという。またゾロアスター教の祭司らは、そのような行為をなせばいかなる者も死、として殺人以上の罪と定めたのである。Westermarck, Edward: The Origin and Development of the Moral Ideas. London 1908, 1912, 1971. www.fpc.net/sites/bibliobleue/Revues/GF/14/Turquie.htm

古代ペルシアにおける少年愛の起源は、当の古代においてもすでに論じられている。ヘロドトスはギリシアから学んだものだとしている。すなわち「ペルシアの豪奢なおこないの全てはギリシアからの借りものである。ギリシア人が少年愛を教えたのだ」というHerodotus, ''Histories;''I.135, tr. A.D. Godley。しかしながら一方でプルタルコスはペルシア人はギリシアに到来するはるか以前から、宦官の少年を「ギリシアの方法」で用いていたと論ずるPlutarch, ''De Malig. Herod.'' xiii.ll。これらに対して、リチャード・フランシス・バートンはチグリス=ユーフラテス起源説をとるRichard F. Burton, ''Terminal Essay''。さらに近年の研究では、ペルシア文学研究者ザビーフ・アッラー・サファーが少年愛を「西暦10世紀、11世紀、(テュルク系)軍事奴隷(から身を起こした王たち)と黄色人種の中国部族の堕落した支配以降、イランを汚染してきた恥ずべき遺産と論じているPaul Sprachman, "Le beau garcon sans merci: The Homoerotic Tale in Arabic and Persian" in ''Homoeroticism in Classical Arabic Literature,'' ed. J. Wright and K. Rowson, New York, 1997, p.199。

イスラーム期のイランについて、ルイス・クロンプトンは「少年愛は目を見張るほどの隆盛をきわめた」といい、文学にも少年愛的トポス、すなわちバッチェ・バーズィー(少年遊び)という言葉が頻繁に用いられた。ウマル・ハイヤーム(1123年没)のルバイヤートや、アッタール(1220年没)、ルーミー(1273年没)、サアディー(1291年没)の「薔薇園(ゴレスターン)」、ハーフィズ・シーラーズィー(1389年没)のガザル、さらにはイーラジ・ミールザー(1926年没)でさも、「美少年、あるいは行為そのものへの露骨な言及とともに、同性愛的暗喩に満ちた」作品をものしているJanet Afary, ''Foucault and the Iranian Revolution: Gender and the Seductions of Islam''。

このような習慣を批判する者もいた。ガズニのサナーイーはその一人であり、詩の中で当代の少年愛的習慣に嘲りを加えている。例えば、ヘラートのフワージャがその小姓とのわずかな逢瀬をモスクで楽しもうとした話がある。

難を避けるに場を見いだせず、フワージャは乱れ、
モスクを思うに事も無し、と、フワージャは思う。
しかし信仰厚き者に見いだされる

信仰厚き者は伝統的な同性愛への非難を用いて難じ、叫ぶ。「その罪深き行いは全ての実りを滅し、旱魃を招くのだ!」とFrom the ''Garden of Truth and Path to Enlightenment'' (tr. Paul Sprachman)。しかもサナーイーは、この信心深き男が、フワージャが決まり悪く退出した後に、少年にまたがり、なすべきことをなしたのだと皮肉っている。

中世のペルシア語詩における少年愛的トポスは上記のように広く浸透したものであって、西欧諸言語への翻訳にあたっての障害となった。ディック・デービスは「さらなる文化の壁であり、特に乗り越えるのが難しいものとして、中世のペルシア語韻文における少年愛の多大かつカルト的流行であげられるのは疑いない」という。デービスは西欧諸語への翻訳について、ペルシア語原文での代名詞が性を持たないという点を、多くの翻訳者が活用していることを指摘する。「これを用いて、翻訳者は承知の上で、問題をごまかし、何事もないかのように原文の不適切な部分を削除・修正してしまうのである」www.breadnet.middlebury.edu/~nereview/Davis.html。これは著名な作品でも同様で、たとえばサアディーの「薔薇園」のさほど過激でないエピソードさえも英語への翻訳において、異性愛のエピソードにされてしまっているMinoo S. Southgate, "Men, Women and Boys: Love and Sex in the Works of Sa'adi" in ''Asian Homosexuality'' ed. Wayne Dynes; p.289。

少年愛的伝統は絵画などの芸術にも影響を与えている。性的に過激な数例は存在するものの、ほとんどは、凝視によって魅惑的な状態を見出すというスーフィズムの感性を反映したものである。男性と美少年の組み合わせを描いた絵画が多いが、これは一方の男性が美少年を凝視しているのである。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世に保護されたレザー・アッバースィーは、酒姫(サーキー:酌人の美少年・美青年)を単独、あるいは男性をともなった形で描く多くの作品を残している。

ペルシア宮廷への英国大使秘書トマス・ハーバートは、21歳であった1627年から1629年のいずれかの時点でのシャー・アッバースの宮廷の様子を報告している。「酌人の少年たちがいた。彼らは金の胴着をまとい、きらめく飾りをつけた豊かなターバンをつけ、上等のサンダルをはいている。肩に掛かる髪はカールし、くるくるとした目、そしてうっすらと染まった頬をしている」。この時代は、男性売春宿アムラード・ハーネ(髭の無い者の家)が法的に公認され、課税されていた時代でもある。ジャン・シャルダンは同じ時代ペルシアを旅し「女性を提供しない数多くの男性売春宿を見た」と報告している。17世紀後半に旅したジョン・フライヤーは「ペルシア人は謙虚さを投げ出し、女性と同様少年たちをも切望している」との感をもっている。

ペルシア人の少年との楽しみに関する悪評は、19世紀後半リチャード・フランシス・バートンが中央アジアの少年愛に言及する際「ペルシアの悪癖」という表現を用いたほどである。バートンは「少年は食事、入浴、脱毛、軟膏、多くの化粧師と、最大限の配慮を持って用意される」とシャルダンの観察を確認し、さらに19世紀後半にも男性売春宿が存続していたことを述べている。またペルシア人のこのような習慣は、少年時代に始まると仮定し、少年時に「アリーシュ・タキーシュ」という遊びでお互いに性的愉悦を見出すのだという。そしてその後、結婚して子供が生まれると、再び「家長は美少年へと舞い戻る」とR. F. Burton, ibid.。



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◆目次

イスラーム世界の少年愛とは
文学と法学
諸地域における少年愛的要素
 中東
  イラン
  オスマン帝国
 アルバニア
 中央アジア
 ムガル朝
スーフィズムにおける少年愛の要素
近代の抑制
参考文献
脚注
関連項目

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