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「イスラーム世界の少年愛」
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■オスマン帝国


オスマン帝国における、男性と少年の同性愛関係は商業的な性格を持つことが多い。少年らはたとえばキョチェク(ペルシア語クーチェク「小さい」に由来する)のような芸能者やハンマームのテッラク(三助とマッサージ師を兼ねる)などが売春に携わる。彼らは一般にムスリムではなくアルメニアやイオニア、バルカンなどから売られてきた者が多かった。キョチェクのあり方は17世紀から18世紀にかけてのオスマン朝文化の中心的要素となり隆盛をきわめた。美少年の踊り子を巡る競争が過熱し、社会秩序維持上の問題となるにいたり、この慣行は1856年、スルタン・アブデュルメジト1世の治世下で禁止されることになる。

テッラクも重んじられた。個々人の性格・特質をリストアップしたカタログが作成され、彼らの好意をめぐって暴力事件に発展することもあった。その一例として、18世紀半ば、対立するイェニチェリの集団間で市街戦が起こっている。この際にはスルタンが介入し沈静化、少年は絞首刑に処された。美少年と関係を持つ軍人たちは遠征に彼らを伴ったものとおもわれる。英国人旅行家ヘンリー・ブラントは1630年代のオスマン軍のポーランドへのバルカン行軍に同行し次のように記録している。「パシャは、それぞれ10人から15人の妻、同数あるいはそれ以上の少年を連れ……おおむねベルベット、あるいは緋色の服を着て、偃月刀を佩き、贅沢な備品を帯びて、勇ましく騎乗してゆく」。

オスマン帝国下での性的慣行は共存するキリスト教徒からたびたび非難の対象となっている。モルダヴィアの年代記では1475年のクリミア半島作戦において、オスマン帝国が「汚らわしいソドミーを追う邪教徒トルコ人」によって「150人の少年を満載し」ガレオン船で出航させたと言及している。

1603年から1605年の間オスマン帝国の捕虜となり厳しい状況下におかれたトーマス・シャーリーは、オスマン人について次のようなことを述べている。すなわち「敬虔なキリスト教徒であれば妻も恥じるような、少年との肛門性交を厚かましくも堂々とおこなっている」と。

友人バイロンとともにイスタンブルへ旅したジョン・カム・ホブハウスはキョチェクの踊りを「ぞっとするほどに汚らわしい」と評し、また「ドン・レオン」の筆名による詩(おそらくはバイロンによるものとの指摘もある)は「途方もない場」とトルコの少年売春に言及している。

このような性的慣行は現代に至るまでオスマン帝国領を構成した各地の言語に痕跡が見られる。たとえば「後ろ」とか「肛門」を意味するペルシア語からの借用語プーシュトは、性行為の受け側に対する現代ギリシア語蔑称プースティスとして現れており、またルーマニア語でもプシュティは、現代では子供や若者の用いる特に強い意味を持たない言葉となっているが、19世紀末まで少年愛者や異常性嗜好者の意味を持っていたAlexandru Cioranescu, ''Dicţionarul Etimologic al Limbii Romane''.。

シャリーアに基づくオスマン刑法の研究では、少年との同意なき性行為を持続的におこなった場合には重罪とされ、有罪とされた場合には極刑もありえたことが明らかになっている。


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◆目次

イスラーム世界の少年愛とは
文学と法学
諸地域における少年愛的要素
 中東
  イラン
  オスマン帝国
 アルバニア
 中央アジア
 ムガル朝
スーフィズムにおける少年愛の要素
近代の抑制
参考文献
脚注
関連項目

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