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「11PM」
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■エピソード


・ 企画段階では月曜から金曜まで全て日本テレビが制作する予定であったが、当時の日テレ内部では社員の労働超過が問題になっており、労働組合が猛反発。会社側が「日本テレビ制作は月・水・金曜の週3日とし、火曜と木曜は読売テレビに制作を委託する」という妥協案を出し、これを組合側が受け入れて番組が制作された。
・ 当初は時事問題などを硬派に放送するお堅いニュースショーであったが、放送開始当初は全く視聴率が取れなかった。日本テレビがてこ入れを図るため構成作家として大橋巨泉を招聘したが巨泉が「こんな番組やってたんじゃ、世間の支持なんかとれませんよ。何ならボクが変えてやるよ」と言ったことから、番組は当初とコンセプトを180度転換。巨泉は「やりたいことをやる」と主張。麻雀やゴルフ、釣りなど趣味をそっくりそのまま放送するスタイルを持ち込んだ。このことが視聴者に受け、またお色気もあることから「お父さんが夜更かしして観る番組」となり、大人気となった。巨泉は自身の主張通りに番組をやろうと4人ぐらいのタレントに司会を打診したが断られてしまい、親友の横田岳夫ディレクターから「巨泉、自分でやってよ」と頼まれたために放送開始の第2週目大橋は当初初代の山崎時代に司会者ではなくレギュラーで登場し「巨泉のなんでもコーナー」の担当が実質的な初登場であった。に結局自分でやることになったという巨泉が『いつみても波瀾万丈』に出演して語ったところによる。これを機に巨泉はこれまでの放送作家から司会者に転身することとなり、その後TBSテレビ『お笑い頭の体操』や『クイズダービー』等の司会でも活躍していた。
・ また、俳優として既にTBSテレビ『パックインミュージック』のパーソナリティーで人気が出た愛川欽也も、1974年に司会で出演。愛川も司会者として定着し、その後のフジテレビ『なるほど!ザ・ワールド』や、現在も司会を手掛けているテレビ東京『出没!アド街ック天国』等でも活躍している。
・ 番組リニューアル当初はバニーガールの女性アシスタントが番組を盛り上げたが、青少年に悪影響を及ぼすという理由でPTAからのクレームも付いたといわれている。その他、生放送であったために大阪イレブンを中心に放送してはいけない箇所が流れてしまうことも多く1960年代後半から1970年代初頭にかけて大阪イレブンのレギュラーとして出演していたストリッパーの初代・一条さゆりはアンダーヘアを見せるまで脱ぐ「全スト」を売りにしていたためこういう事態が起きていた。、また、大阪イレブンの企画「秘湯の旅」ではリポーターが全裸で雪の中に飛び込むなどの描写もあり、スタッフが警察から出頭要請を受けることも多かった。しかし、スタッフ達は『11PM』には自信を持っていたため、出頭ではなく「喧嘩をしに行く」感覚だったという(朝丘雪路の談)。
・ 読売テレビ製作枠での最高視聴率は1973年12月に放送された「東西ストリップ合戦」で48%超であった。放送中アンダーヘアが見えそうだと感じたカメラスタッフは天井にカメラを向けて肝心な所を見せない行動で対していたが、視聴者には不評であった『11PM』読売テレビ版最終回での回顧録より。
・ 当時から「ワースト番組」「俗悪番組」「エロブンPM」などと呼ばれ、PTAや世間から批判や抗議は多かった。1975年には日本共産党中央委員会委員長(当時)の宮本顕治から「ポルノ番組だ」と非難されたが、番組に自信を持っていたスタッフは耳を貸さなかった。一方、寺山修司や山本直純などの文化人からは評判が良く、作家の井上ひさしは1972年の雑誌の中で「最良のテレビ番組は『11PM』だ。そこには知恵があり、熱気があり、一生懸命テーマを出そうとする気概がある。これが面白くなくてなんであろうか」と絶賛した。なお、井上ひさしは日本共産党議長の不破哲三と共著の書籍を出したり、共産党系の教職員組合の全国教育研究集会に講演者として出席するなどしている。
・ 明石家さんまが大阪イレブンのコーナーでテレビデビューをしている。「落語家の成人式」という副題で「SEXの四十八手以外に知っている技は?」という質問に「逆さ十文字落としでぇーす!!!!」と答えて司会の藤本義一から「テレビで言って良い事と悪い事があるぐらい覚えておきなさい!」と叱責された。なお、この時落語家でありながら赤のタキシード姿で出演したのは師匠・笑福亭松之助の入れ知恵による。その後、さんまには大橋巨泉・愛川欽也降板後の東京イレブンの司会のオファーがあったが、考えた末に断ったと当時の本人のラジオで語っている。
・ 人気フォークバンドのザ・フォーク・クルセダーズが大阪イレブンの出演を最後に解散。番組のエンディングはいつものスキャットの曲ではなく、「かなしくてやりきれない」を全員で合唱してエンディングを締めくくった後年、テレビ朝日系『報道ステーション』のフォーク・クルセダーズの特集でもその映像が紹介された。。
・ 名古屋テレビが一時期水曜を日本テレビと隔週で担当したことがある。また、月一回の割合で木曜の読売テレビ制作分も共同制作を行い、更に土曜の増枠で毎週土曜イレブンを制作担当した。1973年、名古屋テレビはクロスネットの解消で制作を撤退しネットも打ち切り。代わりに中京テレビが土曜イレブンを短期間ながら制作担当した。
・ 第一次オイルショックによる電力節減の一環として1974年1月7日以降在京5局での深夜放送が中止されることになったが、「24時30分を限度とする」とされたこともあり、『11PM』については現状維持のまま放送が継続された一方裏番組としてTBSテレビで23時30分から24時30分に放送されていた『ぎんざナイトナイト』は24時までに短縮。また、NETテレビでこの週から『23時ショー』に代わりスタートした『スタジオ23』は元々23時から23時50分の放送だったため影響は無かった。。しかし、在阪4局では「1月14日から24時以降の放送中止」の申し合わせがされたため、読売テレビのみ24時で『11PM』の放送が打ち切られた。その際24時直前に飛び降りポイントが設けられた。大阪イレブンについては24時以降は読売テレビ(近畿広域圏)での放送はしないものの日本テレビ及びネット局向けに制作・配信(いわゆる裏送り)された。在阪4局の申し合わせはその後24時50分に緩和されたため、5月27日からは通常の放送に戻った。第二次オイルショックの際も省エネ政策の一環で深夜放送が自粛されたが(1980年から1982年)24時45分終了が一つの目安とされたこともあり、この番組への影響はなかった。
・ 巨泉と朝丘のオープニングの掛け合いである「野球は巨人、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝がまるで弱い朝丘雪路です」というやり取りは当時盛んにものまねの対象にされた。1999年の復活特番の際にはそれぞれ「野球はダイエー、司会は巨泉の大橋巨泉と」ダイエーホークスがこの年のプロ野球日本一だった。、「朝まるで弱くなくなっちゃった朝丘雪路」と自己紹介していた。
・ エンディングでは、司会者が「明日は東京・日本テレビ(大阪・読売テレビ)からお送りします。おやすみなさい」のセリフで締めくくっていた。


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◆目次

11PMとは
番組概要
 深夜の"ワイドショー番組"としてスタート
 テーマ音楽について
 テーマバックアニメーション
 その他特記事項
代表的な企画
エピソード
出演者
 1985年以前
 1985年以降
 出演者陣の変遷
ネット状況
主なスタッフOB
番組の終焉
11PM 11回忌法要スペシャル

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