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| セオドア・ロバート・バンディ Theodore Robert Bundy | |
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マグショット | |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1946年11月24日 |
| 死没 | 1989年1月24日(42歳没) |
| 死因 | 電気椅子による処刑での電気ショック |
| 殺人 | |
| 犠牲者数 | 30人以上 |
| 犯行期間 | 1974年–1978年 |
| 国 | |
| 州 | |
| 逮捕日 | 1975年8月16日逮捕 1977年12月30日脱走 1978年2月15日再逮捕 |
| 司法上処分 | |
| 刑罰 | 死刑 |
| 有罪判決 | 強盗殺人罪・殺人罪・強盗強姦罪・強姦罪・強盗致傷罪・強盗罪・死体遺棄罪・死体損壊罪・誘拐罪 |
| 判決 | 死刑 |
セオドア・ロバート・バンディ(Theodore Robert Bundy、1946年11月24日 - 1989年1月24日)は、アメリカの殺人、誘拐、強姦、強盗犯である。少なくとも1970年代から多数の若い女性を強姦、殺害するとともに死体に対する凌辱も行っていた。死刑執行の直前に、10年以上も否認してきた殺人事件について自白を始め、1974年から1978年の間に7つの州で30人を殺害していることが明らかになった。被害者の実数は不明だが、おそらくはこの数字を上回り、「シリアルキラー」の語源となった。
バンディの手にかかった女性の多くは、彼のことをハンサムな男だと思うだけでなくカリスマ性すら感じていたが、彼のほうでも信頼を得るためにその容姿を利用した。バンディがターゲットの女性に近づくときによく使っていたのは人目のある公共の場で怪我人や障害者を装ったり、当局の人間であるかのように振舞う手口だった。そして女性を人里離れた場所へと連れていき、力で屈服させて強姦した。バンディは女性を殺害した現場に再び訪れて、犠牲者に第二の犯行に及ぶこともあった。つまり彼は遺体が完全に腐敗したり野生動物に食い荒らされるまで、屍姦や遺体の損壊を行ったのである。バンディは殺害した女性のうち少なくも12人の首を斬り落とし、しばらくの間、自分のアパートでその首を記念に保管していた。時には堂々と夜半に住居に押し入り、眠っていた被害者を脅して強姦することもあった。
1975年、バンディは誘拐事件と強姦未遂によりユタ州で投獄され、初めて刑務所に入ることになる。彼は同時に複数の州で未解決の連続殺人事件の容疑者としてリストアップされていた。コロラド州では殺人罪で起訴されたが、2度の劇的な脱獄を果たし、1978年にフロリダ州で逮捕されるまでに3件の殺人を犯し、暴行を繰り返した。フロリダ州の殺人だけで、彼は別個の2回の裁判で3回の死刑を宣告された。
1989年1月24日にバンディはフロリダ州刑務所で電気椅子による死刑が執行された。ノンフィクション作家のアン・ルールはバンディを「彼は彼の被害者の死の瞬間や死後でさえも被害者の苦痛や支配に喜びを得るサディスティックなソシオパスであった」と表現している。彼自身はバンディのことを「今まで会った人間の中で一番冷血なくそ野郎〔son of a bitch〕」と呼んでいた。最後の弁護士チームにいたポーリー・ネルソンは「定義通りの冷酷な悪」だと書いている。
テッド・バンディことセオドア・ロバート・カウエルは、1946年11月24日にバーモント州バーリントンで生まれた。テッドを未婚女性のための産院であるエリザベス・ランド・ホームで生んだ母は、名をエレノア・ルイーズ・カウエル、通称ルイーズといった。父親ははっきりしておらず、出生届には父親として販売員でありアメリカ空軍の退役軍人であったロイド・マーシャルの名があるが、ルイーズは後に自分が名前はうろ覚えだがジャック・ワシントンという「水兵」に貞操を奪われたのだと主張している。後に当局も調査を行ったが、アメリカ海軍にも民間船にもそのような名前を持った人間の記録は見つからなかった。親戚の中には、テッドの父親が、彼女自身の父親サミュエル・カウエルだという人間もいる(ルイーズは虐待を受けていた)が、この説に物的証拠はない。
3歳までテッドはフィラデルフィアにある母方の祖父の家で生活した。祖父のサミュエルと母のルイーズは、当時社会的に不名誉とされていた婚外子だと後ろ指をさされないようにテッドを育てており、幼いテッドは祖父母のことを両親、母のことを姉だと教えられていた。最終的に真実を知ることにはなるのだが、それに気づいた瞬間に関する彼の回想は2つあるものの、互いに食い違っている。ガールフレンドには、自分を「私生児」呼ばわりしたいとこが出生届のコピーを見せてきたと語っており、伝記作家のスティーヴン・ミショーとヒュー・エインズワースには、自分で出生届を見つけたと話している。伝記作家であり犯罪ルポライターでもあるアン・ルールは、バンディと親しかった人物だが、彼女は1969年にバーモント州で自分の出生届の原本を探し出すまで、家族の秘密に気づいていなかったと考えている。自分の本当の父親について語らず、探したければ探せという母親の姿勢に、バンディは死ぬまでずっと怒っていた。
いくつかの取材においてバンディは祖父母について詳しく語り、ルールには祖父の中に自分を見出し、尊敬していて、いつもくっついていたと話している。しかし1987年に、家族はテッドを連れて弁護士に祖父サミュエルの素行について相談をしている。その内容は、サミュエルが家庭を牛耳って威張り散らし、黒人やイタリア人、カトリック、ユダヤを嫌悪している、妻や飼い犬を殴り、近所の猫の尻尾をつかんで振り回すというものだった。ある時はルイーズの妹ジュリアを、寝坊したという理由で階段の踊り場まで突き落としている。目に見えない存在に向かって大声を出すことがあり、テッドの父親が誰なのかという話が持ち上がったことに激昂して暴れたことも確実なものだけで一回はあった。
バンディによれば、祖母はおどおどした様子で言われるがままの女性で、鬱状態の改善のため定期的に電気けいれん療法を受けていて、老いるにつれて外出を怖がるようになった。テッドは、すでに幼いころから、周りを困らせるような行動をとることがあった。ある日、叔母のジュリアがうたた寝からふと目を覚ますと、カウエル家の台所にあった包丁が自分のまわりに置いてあり、3歳の甥っ子は彼女が寝ていたベッドのそばで微笑んでいた、とジュリアは回想している。
1950年、ルイーズは名字をカウエルからネルソンに改め、何人もの家族の強い勧めにより、息子を連れてフィラデルフィアを離れワシントン州タコマに移り、いとこのアラン・スコットとジェーン・スコットと同居した。1951年、メソジスト教会主催のお見合いパーティで、ルイズは病院の調理師だったジョニー・カルペッパー・バンディ(1921 - 2007年)と出会った。この年の後半に2人は結婚し、ジョニー・バンディは正式にテッドを養子とした。ジョニーはルイーズと4人の子をつくり、実の子供といっしょにテッドもキャンプなど家族の行事に連れて行き、彼を家族として扱おうと努めたが、テッドは心を開かなかった。後にテッドはガールフレンドに、ジョニーは本当の父親ではないだけでなく「あまり気が利かず」「稼ぎもよくない」と不平をこぼしていた。
伝記作家にテッドが語るタコマの思い出は、相手によって内容が変わった。ミショーとエインズワースに話したときは、近所をうろついて、ゴミ箱をあさっては女性のヌード写真を探していた、という。またポーリー・ネルソンには、性犯罪を題材とした刑事もの雑誌、犯罪小説、犯罪ルポが好きで、とりわけ死体や四肢が欠損した身体の挿絵には目がなかった、と説明している。一方でルールに宛てた手紙では、「実話系の刑事もの雑誌なんて読んだことは絶対ないし、読む人がいると考えただけでぞっとする」と断言している。さらにミショーとの会話では、自分がいかに大酒を飲んでいたかを語り、夜中に「地元を徘徊して」女性が着替える姿を覗くことのできるカーテンのかかってない窓を探しまわっていたし、なんなら「覗けるものであれば[なんでも]」よかったとさえ回想している。
テッドの話は学校生活についても食い違っており、ミショーとエインズワースには、思春期には人との付き合い方がわからず、「あえて1人でいることを選んだ」と説明している。普通の人ならば持っている友情の育て方が備わっていなかったのだと言う。「友達になりたいという気持ちがわからない」、「人間関係の裏に何があるのか理解できない」と彼は言っている。だがウッドロー・ウィルソン高校時代の同級生らはルールに、テッドは「有名で人気もあり、広い池で例えるなら中ぐらいの大きさの魚」だったと語っている。
テッドにとって唯一の趣味らしい趣味がスキーだった。彼は盗んだ道具と偽造したリフト券で、大いにスキーを楽しんだ。
高校在籍中に、住居侵入と自動車泥棒の容疑で少なくとも2度逮捕されている。しかし彼が18歳になった時点で、ワシントン州での慣例通り、事件の詳細は公的な記録からは抹消されている。
1965年に高校を卒業したバンディは、ピュージェットサウンド大学に1年間在籍し、中国語を勉強するため1966年にはワシントン大学に転学した。翌年から彼は、ワシントン大学の同級生の女性と付きあい始めている。バンディの伝記ではさまざま偽名が使われているが、その中では「ステファニー・ブルックス」とされていることが多い。1968年の初めにワシントン大学を中退して最低賃金の仕事を転々とした。ネルソン・ロックフェラーが大統領選に出馬した時は、シアトル事務所でボランティアスタッフもしていて、アーサー・フレッチャーがワシントン州の副知事に立候補した際は、その運転手兼ボディーガードを務めた。
この年の8月にはマイアミで行われた共和党の全国集会にロックフェラーの代理人として出席している。その後まもなく、ブルックスはバンディの幼稚さと向上心のなさに不満を抱き、恋愛関係に終止符を打ってカリフォルニア州の実家に帰ってしまった。精神科医のドロシー・ルイスは、この破局こそが「おそらく彼の人格形成上の転機」だと後に指摘した。ブルックスに振られて傷心のバンディは、コロラド州に旅行に出かけ、さらに東に向かってアーカンソー州とフィラデルフィアの親戚を訪ね、テンプル大学に1学期(セメスター)通っている。1969年の初めに、バンディはバーリントンの出生登録所に行き、自分の父親が本当はサミュエルではないことを初めて知った、とルールは考えている。
バンディは1969年の秋までにはワシントン州に戻り、エリザベス・クレプファー(バンディ関係の文献におけるメグ・アンダース、ベス・アーチャー、リズ・ケンダルと同一人物)と出会っている。彼女はユタ州オグデン出身の離婚経験者で、ワシントン大学医学部で秘書をしていた。2人の激しい恋愛は、1976年にバンディがユタ州で初めて投獄されてもなお途切れることなく続いた。
1970年代半ばにはバンディは目標も定まりワシントン大学に復学して、今度は心理学を専攻している。彼は優等生として表彰され、教授陣からの評判もよかった。1971年には、シアトルの自殺防止ホットライン緊急センター(Suicide Hotline Crisis Center)で職を得るとともにアン・ルールと知り合い、また同僚となった。ルールはシアトルの元警察官で、犯罪ルポライターになる夢を持っていた。彼女は後に、決定的なバンディの伝記である『私のそばの他人』(The Stranger Beside Me)を書くことになる。当時の彼女はバンディの人格に何ら嫌悪感を抱くことなく、彼のことは「親切で気遣いもあり、親身になってくれる」と評していた。
1972年にワシントン大学を卒業すると、州知事のダニエル・J・エバンスの再選を目指した選挙戦に参加し、学生を装ってエバンスの対立候補である元知事のアルバート・ロゼリーニの行動を追いかけ、街頭演説を記録して分析のためにエバンスの選対チームに情報を送った。皮肉なことに、エバンスはバンディをシアトルの犯罪防止諮問委員会の一員に任命した。エバンスが再選を果たすと、バンディは共和党ワシントン州支部長のロス・デイビスに助手として雇われた。デイビスはバンディを気に入っており、彼について「頭は良いし積極的だし……体制の信奉者である」と語っていた。1973年の初めにピュージェットサウンド大学とユタ大学の両ロースクールに合格したが、入試の点数は凡庸だった。バンディの合格はエバンスやデイビス、ワシントン大学の複数の心理学部教授の推薦書のおかげだった。
共和党の仕事でカリフォルニアへ出張していた1973年の夏に、バンディはブルックスとよりを戻している。彼女にはバンディが法曹界・政界でキャリアを築きつつあるように映り、真面目でひたむきな人間になっていたのに驚かされた。バンディはクレプファーとも交際を続けたが、彼女たちはお互いの存在に気づくことはなかった。1973年の秋にバンディはピュージェットサウンド大学ロースクールに入学するが、ブルックスと関係を続けていた。彼女は何度かシアトルまで飛んできてバンディとともに時間を過ごした。2人は当時結婚を相談しており、一度はデイビスに婚約者として彼女を紹介していた。
しかし1974年1月に、バンディは突然一切の連絡を絶った。彼女からの電話にも手紙にも、返事を返していない。1ヶ月後にようやく一度だけ電話がつながったので、彼女はなぜバンディが説明もなく一方的に関係を終わらせたのか知りたいと伝えた。バンディは抑揚のない、落ち着いた声で「ステファニー、何のことだかまるでわからない」とだけ答えて電話を切った。彼女にはバンディからの連絡は二度となかった。後にバンディは「彼女と結婚することもできたと自分に証明したかった」と説明している。ブルックスはのちに回顧して、交際そのものが計画的であり最後にバンディが彼女を振ることは予定通りのことで、1968年に彼女のほうから振ったことに対する復讐だったのだと結論づけている。
この頃までにはバンディはロースクールの授業をサボるようになっていて、4月になるとまったく大学に行くのをやめてしまった。ちょうどその頃、アメリカ北西部では若い女性の失踪が続いていた。
バンディがいつどこから女性を殺めるようになったのかについて一致した意見はない。彼の説明は話相手によってばらばらであるうえに、初期の犯罪の詳細については口を閉ざした。後期の殺人については死刑執行までにありありと詳細を告白したのとは対照的である。ネルソンには、1969年にニュージャージー州オーシャンシティで初めて誘拐を試みたが、1971年のシアトルのある日の事件までは誰1人殺していないと語っている。精神分析医のアート・ノーマンには、1969年にフィラデルフィアの家族を訪ねた際に、アトランティックシティで2人の女性を殺したと言述べている。
殺人担当課の刑事ロバート・D・ケッペルには、1972年にシアトルで1人殺して、1973年にタムウォーター近辺にいたヒッチハイカーが犠牲になった別の事件でも殺人をほのめかしているが、詳しくは語っていない。ルールもケッペルも、彼は未成年の頃から殺人に手を染めていただろうと考えている。状況証拠しかないが、1961年に当時8歳だったタコマ在住のアン・マリー・バーを誘拐して、殺した疑いがある。このとき彼は14歳だった。しかしバンディは繰り返しこの説を否定している。彼による殺人事件として認定されているうちで、一番古いものは、バンディが27歳(1974年)の時のものだ。しかしこの時代にはまだDNA鑑定がなかったとはいえ、自分でも認める通り、彼はすでに犯行現場に最小限の法科学的な証拠しか残さないようにする技術をマスターしていた。
1974年1月4日(この頃すでにブルックスとは連絡を絶っていた)の0時を少し過ぎたころに、バンディはワシントン大学の学生でありダンサーの仕事もしていた18歳のカレン・スパークス(文献によってはジョニ・レンツ、メアリー・アダムス、テリー・コードウェルなど)のアパート地階の部屋に侵入して、ベッドフレームから鉄の棒を外して、眠っていた彼女を意識がなくなるまで殴りつけ、その鉄の棒(文献によっては鉄のスペキュラム)で彼女に性的暴行を加えた。そのため彼女は酷い内臓損傷を被ることになった。バンディの暴行によって彼女は意識不明の状態が10日続き、その後一命をとりとめたもののその後身体と精神に障害を抱えて一生を送ることになった。2月1日の早朝には、リンダ・アン・ヒーリーの部屋に押し入っている。彼女はワシントン大学の学部生であると同時にスキーヤーで、朝のラジオで天気予報のレポーターをしていた。バンディは彼女を殴って気絶させると、青いデニムと白のブラウスを着せ、ブーツを履かせて彼女を連れ去った。
1974年の前半には月に1人のペースで女子大学生が失踪した。3月12日、シアトルから南西に100km弱離れたオリンピアで、エヴァーグリーン州立大学に通う19歳のドナ・ゲイル・マンソンは、大学のキャンパスで開かれるジャズコンサートに行くために寮を出たが、会場には姿を表わさなかった。4月17日、スーザン・エレイン・ランコートがシアトルから東南東に200km弱のエレンズバーグにあるワシントン州立大学でその日の午後にあった新入生オリエンテーションから寮への帰宅中に失踪した。。セントラルワシントン大学の女子学生2人が後に名乗り出て、ランコートが失踪する前にある男に出会ったという情報を提供した。その男は怪我人のように腕をスリングで吊っていて、荷物の本を自分ブラウンのフォルクスワーゲン・タイプ1に積むのを手伝ってくれないかと頼んできたという。5月6日には、ロベルタ・キャスリーン・パークスがポートランドから150km弱南にあるコーバリスのオレゴン州立大学の寮を出たまま姿を消した。キャンパス内にある学生会館メモリアルユニオンで友人たちとカフェをするはずだった。
キング郡保安局とシアトル警察署の刑事たちは次第に懸念を募らせていたが、物理的な証拠は一切見つかっておらず、失踪した女性にも共通点はほとんど無かった。あるとすれば、彼女たちはみな若く魅力的な白人の女子大生で、長い髪を真ん中で分けていることぐらいだった。6月1日、22歳のブレンダ・キャロル・ボールが、シアトル・タコマ国際空港に近いベリアンのパブから出た後に行方不明になった。最後に彼女が目撃されたのはこの店の駐車場で、髪の毛がブラウンで腕をスリングで吊っている男と話している場面以降は消息がわからなかった。6月11日の深夜にはワシントン大学の学生ジョーガン・ホーキンスが、ボーイフレンドの寮から自分の女子寮までの、街灯もあって明るい路地を歩いていた途中で行方不明になり、翌朝シアトル警察署の刑事と鑑識官3人が路地を探したが、何も見つからなかった。ホーキンスの失踪後にその事実が公表されると、目撃者が現れた。その夜は寮のすぐ裏にある小道に男が立っていて、片足にギプスをして松葉づえをついており、書類かばん1つ運ぶのにも難渋していたという情報だった。もう1人、女性の証言もあり、その男から自分のライトブラウンのフォルクスワーゲンにそのかばんを入れるのを手伝ってくれないかと頼まれたという。
この時期に、バンディはオリンピアの危機管理局(DES)で仕事をしていた。つまり州政府で失踪女性を捜索する職員だった。そしてこの職場で、彼は二児の母であり二度の離婚を経験していたキャロル・アン・ブーンと知り合い、付き合うようになっていた。彼女は6年後に、バンディの人生の最後の局面で重要な役割を演じることになる。
6人の女性が失踪し、スパークスに残酷な暴行が加えられたことがテレビや新聞で報じられ、ワシントン州とオレゴンでは誰もが知る事件となった。市民には不安感が広がり、若い女性のヒッチハイカーはあっという間に見かけなくなった。当局に対する不満の声が強まったが、物理的な証拠に乏しく打つ手がなかった。警察にしても、捜査に支障をきたさない範囲で記者に伝えられる情報はいくらもなかったのである。それでも、被害者たちには新たな共通点が見つかっていた。失踪はすべて夜間に起きており、たいてい工事現場の近くで、中間か期末の試験がある週だった。被害女性は全員、スラックスか青いデニムをはいていた。そしてほとんどのケースで、ギプスかスリングをして、ブラウンか褐色のフォルクスワーゲン・タイプ1を運転する男が近くで目撃されていた。
アメリカ北西部での殺人事件がクライマックスを迎えたのは7月14日のことで、シアトルから30キロメートルほど東のイサクアにあるレイク・サマミッシュ州立公園のビーチに人がつめかけている中、白昼堂々、2人の女性が誘拐されたのである。5人の女性がある男性のことを証言していた。その男は若くて感じもよく、話せばカナダ人かイギリス人を思わせる軽いアクセントで、白いテニスウェアを着こみ左腕にはスリングをつけていた。そして自分のことを「テッド」と名乗り、ヨットを褐色かブロンズのフォルクスワーゲン・タイプ1に積むのを手伝ってくれないかと頼んできたという。彼女たちのうち4人は断ったが、1人は車までついていってしまった。しかしヨットなどないことに気づくのが早く、走って逃げることができた。その男がジャニス・アン・オットにも話を持ちかけているところも別の3人が目撃している。彼女は23歳でキング郡の少年裁判所で試用期間中のケースワーカーをしており、やはりヨットの話をされて、男といっしょにビーチを離れたところまでは見ている人がいた。4時間後には、プログラマーになる勉強中のデニス・マリー・ナスランドという19歳の女性が、ピクニックの最中にトイレに行ったきり戻らなくなった。バンディは、スティーヴン・ミショーに、オットはナスランドを拾って戻ってくるまで生きていた(そして片方を殺すところを無理やりもう片方に見せつけていた)と語ったが、処刑の前日にルイスから受けた取材のときはこの話を否定している。
キング郡保安局は、ようやく容疑者と彼の車を詳細に解説したチラシをつくって、シアトル地区に配布した。似顔絵も地方新聞に掲載されたほか、地元のテレビ番組でも報道された。エリザベス・クレプファー、アン・ルール、オリンピアの危機管理局(DES)の職員1名、そしてワシントン大学の心理学部教授の4人全員が、報道されたプロフィール、似顔絵、車について覚えがあり、バンディがおそらく犯人であるという通報を行った。しかしこの頃1日に200件の情報提供を処理していた刑事たちは、成人になってからの犯罪歴もない、見た目もさわやかな法学部生が犯人である可能性は低いだろうと考えた。
9月6日、ライチョウを獲っていた2人のハンターが、レイク・サマミッシュ州立公園から東に3キロメートルのイサクアの側道で、白骨化したオットとナスランドの遺体に出くわした。この場所からは、別人の大腿骨と脊椎骨が発見されたが、バンディは後にそれがジョーガン・ホーキンスのものだと語った。6ヵ月後、グリーン・リバー大学で林業を勉強する学生が、テーラー山でヒーリー、ランコート、パークス、ボールの頭骨や下顎骨を発見した。この山はバンディがよくハイキングにでかけていた場所で、イサクアからすぐ東にあった。マンソンの遺体はその後も見つかっていない。
1974年8月、バンディはユタ大学ロースクールから二度目の合格通知が来たので、クレプファーをシアトルに残してソルトレークシティに引っ越した。頻繁に彼女を呼び出す一方で、デートを重ねる女性はクレプファー以外に「少なくとも1ダース」はいた。初年度のカリキュラムを勉強するのはこれで二度目だったが、「彼は自分にはない、何か知的な能力を持っている学生がいないか必死になって探していた。しかし彼が通うクラスにそれを求めても無意味だということに気づいた。『心底がっかりしたよ』と彼は語った」。
この月以降、新たな連続殺人が始まった。犠牲者のうち2人は、バンディが処刑される直前に自白しなければ遺体すら発見できなかった。9月2日、アイダホ州で未だ身元不明のヒッチハイカーが強姦された後に絞殺され、遺体はそばの川にそのまま流されたか、翌日に写真を撮るために戻ってきたときに切り刻んでから川に流された。10月2日、ソルトレークシティ近郊のホラディでバンディは16歳のナンシー・ウィルコックスを無理やり木が生い茂ったエリアに連れて行くと、自分の病理学的な衝動を鎮めるために(と彼は言う)強姦した後は解放するつもりだったが、うっかり(と彼は言う)叫び声を抑えようとして絞殺してしまった。ナンシーの遺体はホラディから南に300キロメートル以上あるキャピトル・リーフ国立公園のあたりに埋めたというが、その後も見つかっていない。
10月18日、ソルトレイクシティ近郊にあるミッドヴェールの警察署長の娘で17歳のメリッサ・アン・スミスがピザ店を出た後に行方不明になった。9日後、そばにある山間部で彼女の裸の遺体が見つかった。検死の結果、失踪から7日後までは生きていた可能性があることがわかった。10月31日、同じく17歳のローラ・アン・エイミーが40キロメートル南のユタ州リーハイで、夜中にカフェから出た後に行方不明になっている。彼女の遺体も、感謝祭の日に14キロメートル北東のアメリカンフォークキャニオンに裸で見つかった。2人とも殴られ、強姦されて(肛門にも性交の痕跡があった)、ナイロンストッキングで絞殺されていた。数年後に、バンディはスミスとエイミーの遺体の髪をシャンプーしたり、顔にメイクをするといった死後の儀式について詳しく語っている。
11月8日の午後遅くにバンディはユタ州マリのショッピングモール「ファッション・プレイス」で18歳のテレホンオペレーター、キャロル・ダロンシュに声をかけている。そこは、メリッサ・アン・スミスが最後に目撃された場所から1キロメートル足らずの場所だった。彼は自分のことをマリ警察署の「ローズランド巡査」と名乗り、ダロンシュに、君の車に誰かが押し入ろうとしていたので、被害届を出すために署までついてきてほしいと頼んだ。しかし車が向かっているのが警察署がある方向ではないことを彼女に指摘されたバンディは、車をすぐに路肩に停めて、彼女に手錠をかけようとした。もみ合いになったが彼は手錠を2つとも片方の手にかけてしまったため、ダロンシュは車のドアを開けて脱出することができた。その日の午後遅くにマリから北に30キロメートルほどいったバウンティフルのビューモント高校で17歳の生徒デブラ・ジーン・ケントが、学校での演劇製作の後で弟を迎えにいくはずがそのまま行方不明になった。演劇を指導していた教師と生徒の1人は、「見たことのない人」が自分の車を探すため駐車場に来てほしいと頼んできた、と警察に証言した。別の生徒も後から、同じ男が講堂の裏でうろうろしていると話していた。この教師は芝居が終わった直後にもその男を見かけていた。講堂の外で、警察はダロンシュにかけられていた手錠を外す鍵を見つけている。
11月に、ソルトレークシティ周辺の町でまた若い女性の失踪が起こっているという新聞記事を読んだエリザベス・クレプファーは、キング郡保安局にもう一度連絡を入れた。重大犯罪課の刑事ランディ・ハーゲスハイマーが彼女の話を詳しく聞き、バンディは今度こそキング郡における容疑者の筆頭に挙げられるようになったが、レイク・サマミッシュ州立公園の事件において最も信頼できると警察が考えていた証人は、顔写真リストからバンディを特定することができなかった。12月にクレプファーはソルトレーク郡保安局にも連絡し、繰り返しバンディが怪しいと伝えた。バンディの名は容疑者リストに加わったが、この時点ではユタ州の犯罪と彼を結びつける確かな証拠は一切なかった。1975年1月、バンディは大学の期末試験を終え、クレプファーと1週間一緒に過ごした後でシアトルに戻った。バンディは、彼女が3度にわたって別々の警察署に自分のことを通報したことなど聞かされていなかった。一方彼女のほうでは8月にソルトレークシティでバンディに会う計画を立てていた。
1975年には、バンディが犯行に及ぶ場所は、彼の拠点であるユタ州ではなくコロラド州のほうが多くなっていた。1月12日、キャリン・アイリーン・キャンベルという名の23歳の登録看護婦が、ソルトレークシティから南東に640キロメートルのスノーマスビレッジのホテル「ワイルドイウッド・イン」の中で行方不明になった。最後に目撃されたのは、エレベーターから彼女の部屋までの、十分に明るい廊下を歩いているところまでだった。一ヶ月後に、このリゾート地の近郊にある砂利道のすぐ脇で、キャンベルの裸の遺体が見つかった。彼女は鈍器で頭を殴られて絶命しており、その証拠に頭蓋骨は細長く陥没していたほか、逆に身体は鋭利な刃物による深い切り傷があった。3月15日にはスノーマスから北東に160キロメートルのヴェイルの町で、スキーインストラクターのジュリー・カニンガム26歳が、友人の1人とディナーをするためアパートを出た後に行方不明になった。後からバンディはコロラド州の捜査員に、カニンガムには松葉杖をついて近づき、スキー靴を車に運ぶのを手伝ってほしいと頼んだと話した。そして棒で殴りつけると手錠をかけ、そこから140キロメートル西にいったライフル近辺に移動して、性的な暴行を加えてから絞殺したという。数週間後、バンディはソルトレークシティから車で6時間かけて、彼女の遺体がある場所まで戻ってきている。
25歳のデニス・リン・オリバーソンは 4月6日、ユタ州とコロラド州の境界に近いグランドジャンクション近郊で行方がわからなくなった。実家まで自転車に乗って向かっている途中だった。彼女の自転車とサンダルが、鉄道橋そばの高架下から見つかっている。5月6日、バンディはソルトレークシティから260キロメートル北へいったアイダホ州ポカテッロでアラメダ中学校に通う12歳のリネット・ドーン・カリバーを誘拐している。彼は自分のホテルに連れ込むと、カリバーを溺死させてから性的暴行を行い、ポカテッロの北に流れる川に遺体を棄てた。
5月半ばに、ワシントン州の危機管理局でバンディと一緒に働く3人の同僚がソルトレークシティの彼のアパートを訪れ、一週間そこで過ごしている。その中にはキャロル・アン・ブーンもいた。その後6月初めにバンディはシアトルでクレプファーと一週間共に生活し、クリスマスの後の結婚について話し合った。やはり彼女はキング郡やソルトレーク郡の警察に伝えた内容については黙っていた。一方バンディも、ブーンとは関係を継続中であることや、文献によってはキム・アンドリューズやシャロン・オーアとされるがユタ大学ロースクールの学生とも並行して関係を持っていることを秘密にしていた。
6月28日、スーザン・カーティスがソルトレークシティから70キロメートルほど南にあるプロボのブリガムヤング大学のキャンパスから姿を消した。カーティスは、バンディが最後に殺人を認めた被害者だった。彼の告白は処刑室に入る直前で、テープにも録音されている。ウィルコックス、ケント、カニンガム、カルヴァー、カーティス、オリバーソンの遺体はその後も見つかっていない。
1975年の8月か9月に、バンディは末日聖徒イエス・キリスト教会で洗礼を受けているが、教会での礼拝には熱心ではなく、戒律もほとんど無視していた。翌1976年に彼は誘拐について有罪判決を受け、教会からは破門されている。逮捕後にどの宗教を選択しているのか聞かれたバンディは、子供の頃に信仰していた「メソジスト」と答えている。
ワシントン州では、突如として始まり突如として止んだ太平洋岸北西部の連続殺人を解明することに心血が注がれていた。大量に集まったデータを分析するために、警察はその情報をデータベース化するという当時としては画期的な手法を捜査に取り入れた。このとき使われたのがキング郡の給与計算業務用コンピューターで、現代の基準に照らせば「巨大で、原始的な機械」だが、当時使えるコンピューターといえばこれしかなかった。自分たちが集めたデータ(被害者ごとのクラスメイトや知人、「テッド」という名前のフォルクスワーゲンのオーナー、性犯罪者など)を入力し、コンピューターに重複する人物を照会した。その結果、何千人という中から、4つのグループで26人がピックアップされた。その中の1人はテッド・バンディだった。捜査員たちは人力でもデータベースをつくり、「ずばり」な容疑者を100人まで絞っていたが、こちらにもバンディが入っていた。ユタ州から彼が逮捕されたという知らせが届く頃には、ワシントン州でも彼が「文字通り山積みにされた〔容疑者たちの〕一番上のところにいた」。
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1975年8月16日にバンディはグレンジャー(ソルトレイクシティの近く)でユタ州のハイウェイパトロールに車を停められている。夜明け前に住宅街を流して走っている最中にパトロールカーに発見されたバンディは、スピードを上げてそのエリアを離れようとしたが、停車を指示された。警官はフォルクスワーゲンの助手席のシートが外されて後ろの席に置いてあるのに注目し、車内を捜索することにした。すると目出しのスキー帽、ストッキングでつくった別の目出し帽、バール、手錠、ゴミ袋、ロープ一巻き、アイスピックなどが見つかり、初めは強盗を疑われていた。バンディは、手錠はコンテナのゴミ箱から拾ったものだが、スキー帽はスキーのためで、残りはよくある家庭用品じゃないかと説明した。しかし刑事のジェリー・トンプソンは、1974年11月にダロンシュが誘拐されたときに情報公開された容疑者と車の特徴に似ていることに気づいており、バンディという名前も1974年12月にクレプファーが情報提供の電話をしたときに覚えがあった。バンディのアパートも捜索することになり、ワイルドウッド・インに印のつけてあるコロラド州のスキー場のガイドブックだけでなく、バウンティフルのビューモント高校で上演される芝居の宣伝パンフレットも見つかった。バンディを拘束するだけの証拠としては不十分であり、警官は彼に誓約書を提出させると引き揚げてしまった。バンディは後に、もうちょっとよく探せば被害者を撮ったポラロイド写真のコレクションが見つかったのにと語っている。彼は警察に解放された後で、この写真を破棄してしまった。
警察はソルトレイクシティのバンディに24時間の監視体制を敷いた。トンプソンは2人の捜査員を連れてシアトルに飛び、クレプファーに面会している。彼女によれば、バンディがユタ州に引っ越す前の年に、自分の家やバンディのアパートから何故あるのか「理解できない」ものを見つけていたのだという。例えば、松葉杖、ギプスのはいったバッグ(彼はそれを薬局から盗んだことを認めていた)、料理には使ったことのない肉切り包丁だった。ほかにも外科用手袋や、車のダッシュボードには木箱入りの東洋風の刀があり、女性の服がつまった袋もあった。バンディは慢性的に借金を抱えていたので、クレプファーは彼が持っている高価なものはほぼすべて盗品ではないかと疑っていた。彼のアパートにあった新しいテレビとステレオのことでいさかいになった時にはバンディから「もし誰かに話したら、貴様の首をへし折るぞ」と警告されていた。また彼女によれば、真ん中で分けた長い髪を切ろうとすると、バンディはいつも「ひどく慌てて」いたという。夜に目を覚ますと、ベッドカバーの下でバンディが自分の体を診察するように触っている時もあった。また彼女の車(バンディの車とは別のフォルクスワーゲン・タイプ1で、彼はよく借りていった)には、取っ手の下半分をテープ巻きにしたラグレンチを常に置いていて、バンディはそれが「護身用」だと言っていた。警察の調べでは、バンディがクレプファーといる日には太平洋岸北西部で失踪者が出ておらず、オットやナスランドが誘拐された日にも重ならなかった。クレプファーはトンプソンからの事情聴取の直後に、シアトル警察署の刑事ケイシー・マクチェスニーからも聴取を受けており、この時にステファニー・ブルックスの存在やバンディと1973年のクリスマス前後につかの間の関係を持っていたことを知った。
9月に、バンディは自分のフォルクスワーゲン・タイプ1をミッドヴェールの少年に売り渡している。この車はユタ州の警察に押収され、FBIの技術班によって分解と調査が行われた。車内からはキャリン・キャンベルの遺体からとった標本と一致する髪の毛が見つかった。さらに後になって、髪の毛にはメリッサ・スミスとキャロル・ダロンシュのものと「顕微鏡でみても区別できない」ものもあることがわかった。FBIの鑑識のスペシャリスト、ロバート・ネイルは、1台の車から互いに面識のない3人の人間と一致する髪の毛が出てくるのは「途方もないほどの偶然の一致」だと結論づけた。
10月2日、警察によってバンディの面通しが行われ、ダロンシュはすぐに「ローズランド巡査」は彼だと言った。この面通しでは、バウンティフルから来た目撃者も学校の講堂でうろついていた見知らぬ人として彼を選んだ。デブラ・ケント(遺体は見つかっていない)の事件と彼を結びつける証拠は不足していたが、ダロンシュに対する誘拐と暴行未遂だけで起訴するには十分だった。彼は保釈金15,000ドルを親に肩代わりしてもらい、シアトルで行われる裁判まで、ほとんどの時間をクレプファーの家で過ごした。シアトルの警察はアメリカ北西部で起こった一連の殺人事件について決定的な証拠を欠いたままだったが、それでもバンディを厳しい監視下に置いた。「テッドと私が外出しようとしてポーチに出ると、何台も停まっていた警察の覆面車両が一斉にエンジンをかけるので、インディ500のスタートの時のようなすごい音がした」とクレプファーは伝記に書いている。
11月、バンディを追いかける3人の捜査主任(ユタ州のジェリー・トンプソン、ワシントン州のロバート・ケッペル、コロラド州のマイケル・フィッシャー)がコロラド州のアスペンに揃い、5つの州から来た30人の刑事と検察官とともに情報交換を行った。捜査員たちはバンディが自分たちが追いかけている殺人鬼だと確認しあってこの会合(後にアスペン・サミットと呼ばれるようになる)を終えたが、彼の殺人事件について何から罪を問うにせよ、その前にもっと確実な証拠が必要だということで意見は一致をみた。
1976年2月23日、バンディはダロンシュ誘拐事件の公判に出頭した。この事件に関して世間の評価は彼にとって厳しいものになっていたので、弁護士のジョン・オコネルのアドバイス通りにバンディは陪審裁判を受ける権利を放棄した。3月1日、4日間のベンチトライアル〔陪審を交えず判事のみで行う裁判〕と週末の審議の時間をはさみ、裁判官のスチュワート・ハンソン・ジュニアは誘拐と暴行で彼を有罪とした。6月30日にはユタ州立刑務所での1年以上15年以下の懲役の判決が下されている。10月、獄中のバンディは「脱出キット」(道路地図、飛行機の時刻表、ソーシャル・セキュリティ・カード)を持って刑務所の中庭の茂みに隠れているところを見つかり、数週間を独房で過ごす懲罰を受けている。この月の末に、コロラド州政府は彼をキャリン・キャンベルに対する殺人罪で起訴している。しばらく抵抗したものの、結局彼は州間の身柄引き渡しに関する法的手続きを経る権利を放棄したので、1977年1月に裁判地を同州のアスペンに移された。
1977年6月7日、バンディはグレンウッドスプリングスのガーフィールド郡刑務所から70キロメートル弱離れたアスペンのピトキン郡裁判所に移送され、予備審問を受けた。彼は自ら弁護士として法廷に立ったので、その立場上、裁判官から手錠と足かせの着用の免除を認められた。休憩中に、彼は判例を研究したいと申し入れをして、裁判所の図書館に行った。そして書棚の後ろに隠れて窓を開けると、そのまま二階から飛び降りた。着地した時に右足首をねんざしたが、そのまま上着を脱ぎ捨て、外部との交通にバリケードが張り巡らされたアスペンを抜けて、徒歩で南のアスペン山に向かった。頂上付近でハンター小屋を見つけたバンディは、中に押し入って食料と衣服、ライフルを手に入れた。翌日に彼は小屋を出て、さらに南にあるクレスティド・ビュートの町を目指したが、森の中で迷ってしまった。山の中で方向感覚を失って2日間さまよい、目指していた目的地へと降りるための標識を二つも見逃していた。6月10日、アスペンの町から16キロメートルのマルーン湖に停まっていたキャンピングカーに侵入し、食料とスキー用の上着を奪った。そして南へは向かわず、バリケードや追ってきた捜索隊をかわすために、アスペンのある北に進んだ。3日後、彼はアスペンゴルフ場の片隅で車を盗んでいる。すでに睡眠不足でくじいた足の痛みも引かず、盗んだ車をアスペンに走らせたが道を左右に蛇行したため、2人組の警察官に気づかれて停止させられた。結局、彼が逃亡者でいることができたのは6日間だった。車の中にはアスペン周辺の山岳地帯の地図があったが、それは彼が自分自身の弁護人として権利を行使したため携行できたものだった。そしてこのことは、脱走が思い付きではなく、計画的であったことを示唆している。
グレンウッドスプリングスの刑務所に戻ったバンディは友人たちや法律家の大人しくしていろという助言に耳をかさなかった。裁判はすでにお世辞にもいいとは言えない流れで、公判前の申し立ては一貫して彼の想定内であり、重要な証拠のいくつかも証拠能力がないと退けられていたのに、趨勢は着実に彼に不利になっていた。「被告人にもっと分別というものがあれば、無罪となる素晴らしいチャンスをつかみかけていたことに気づいていたはずだ。そしてコロラド州でかけられた殺人容疑で無罪を勝ち取れば、おそらく本件に関わっていない検察官も諦めるだろう、と...。ダロンシュの件で有罪になっても、たった1年と半年のお勤めを我慢さえすれば、彼は自由に身になることができたのに」という人もいた。結局彼は新しい脱出計画を練ることになる。彼はまわりの囚人から刑務所の詳細な平面図と金のこぎりの刃を入手し、現金で500ドルを集めた。6ヵ月以上かけて複数の面会人に持ち込んでもらった、と彼は後に語ったが、大きかったのはキャロル・アン・ブーンの存在だった。午後になると他の囚人たちはシャワーを浴びたが、その間にバンディはのこぎりの刃を使い監房の天井に鉄筋を避けて30センチメートル四方の穴を空け、獄中で16キログラム体重の落ちた身体をくねらせれば天井裏に潜り込めるように工作した。その後数週間かけて、そのスペースを動き回って探索をしたため、夜になると天井の中で動いているものがあると繰り返し密告する人間がいたが、調査が行われることはなかった。
バンディにとっては切迫した裁判だったが、1977年の後半にはアスペンという小さな町は彼の話題で持ちきりになっていたこもあり、彼は裁判地をデンバーに変更する申し立てを行った。12月23日、裁判官は彼の申し立てを認めたが、ただし変更後の裁判地は伝統的に陪審が殺人犯に厳しいコロラドスプリングスだった。12月30日の夜、刑務所の職員のほとんどがクリスマスで休暇をとっており、許可を得た非暴力犯も一時帰休して家族と過ごしていた中で、バンディはベッドに本やファイルを積み上げ、それにブランケットをかぶせて自分が寝ているようにみせかけると、自分が空けた穴から天井裏に上がった。妻と過ごすため午後から外出していた主任刑務官の部屋の天井を破って中に入ると、クローゼットにあった街着に着替えて、歩いて正門を抜けて刑務所の外に出た。
バンディは車を盗んでグレンウッドスプリングスから東へ向かったが、山間部を抜けて州間高速道路70号線を走っている途中で車はすぐに壊れてしまった。しかし通りがかった車に拾われて、さらに100キロメートル弱東のヴェイルまで送ってもらった。そこからバスに乗ってデンバーまで行き、朝を待って飛行機に乗りシカゴへ向かった。グレンウッドスプリングスの刑務所はぎりぎりの人数で管理されており、バンディが脱獄したことが判明するのは12月31日になってからで、すでに17時間が経過していたが、その頃もうバンディはシカゴに着いていた。
シカゴからは電車でミシガン州のアナーバーに向かった。1月2日には、この町のパブで母校であるワシントン大学がミシガン大学に負けたカレッジフットのロウズボウルを観戦している。5日後に盗んだ車でアトランタへ行き、バスに乗って1月8日の朝にはフロリダ州タラハシーに到着した。彼はクリス・ハーゲンの偽名を使ってフロリダ州立大学(FSU)のキャンパスの近くにある下宿で部屋を借りた。彼はこの時、フロリダで警察から目をつけれなければおそらく自由の身のままで捕まることはないと考えていたので、合法的な仕事を探して犯罪からは足を洗おうと一時は心に決めた、と後に語っている。しかし彼が唯一した求職活動といえば工事現場の仕事だったが、身分証明をつくるように言われたので就職を諦めてしまった。結局彼は、昔のように万引きやショッピングカートに忘れてある女性の財布からクレジットカードを盗む生業に逆戻りした。
1978年1月15日の夜明け前に(タラハシーに到着してから一週間後だった)、バンディはフロリダ州立大学の女子寮であるカイ・オメガの裏にある鍵の壊れたドアから中に侵入した。時間は午前2時45分ごろで、眠っていた21歳のマーガレット・ボウマンを薪で殴りつけ、それからナイロンストッキングで絞殺した。そして20歳のリサ・レヴィの部屋に入り、彼女を強打して失神させると、のどを絞めて殺した。さらに片方の乳首を引きちぎるとともに、左の臀部に深い歯の痕が残るほど噛みつき、ヘアミストの瓶で彼女に性的な暴行を加えた。彼は隣の部屋で寝ているキャシー・クライナーにも襲いかかり、顎を砕くだけでなく肩のところに深い切り傷をつけた。さらにカレン・チャンドラーも彼に襲われ脳震盪を起こし、顎を砕かれて何本も歯を無くすとともに指も1本折れた。その後現場を検分したタラハシーの警察は、彼が4人の犠牲者を手にかけるまで合わせても15分足らずであったと結論しており、寮内には物音が聞こえる距離に30人以上がいたが何かを聞いた人間は皆無だった。女子寮を離れたバンディは、8ブロック先のアパートの地階に住むフロリダ州立大学の学生シェリル・トーマスを襲って彼女の肩を脱臼させ、顎の骨と頭蓋骨を5ヶ所骨折する大怪我を負わせた。彼女には一生の聴覚障害が残り、平衡感覚も失われたためダンサーになるという夢は消えてしまった。警察の捜査で彼女のベッドには精液の染みがみつかったほか、ストッキングの"マスク"もあり、それから採取できた2本の髪の毛は「バンディのものと種類も特徴もそっくりだった」。
2月8日には盗んだフロリダ州立大学のバンで240キロメートルを移動してジャクソンビルに向かった。ある駐車場で14歳のレスリー・パーメンターに声をかけたが、彼女はジャクソンビル警察署の署長の娘だった。自分のことを「消防署のリチャード・バートン」と名乗ったが、途中でやってきた彼女の兄はまったく信じてない様子だったため、その場を立ち去っている。この日の午後には100キロメートル弱を西に引き返してレイクシティにも行っている。その翌朝、レイクシティ中学校で12歳のキンバリー・ダイアン・リーチが教師から忘れた財布を引き取りに生活指導室に来るように言われて教室を出たきり、そのまま行方がわからなくなった。数週間かけて執念深く捜索活動が行われた結果、街から北西に60キロメートル行ったスワニーリバー州立公園の近くにある豚舎の中で彼女の遺体が部分的にミイラ化した状態で見つかった。
2月12日、手持ちの現金が不足して溜まった家賃も払えず、警察が自分の居所をつかみかけているという疑念にとらわれたバンディは、車を盗んでタラハシーを去り、フロリダ・パンハンドルを越えて西へ向かった。3日後の午前1時頃、彼はアラバマ州との境界付近でペンサコーラの警官デイヴィッド・リーから職務質問を受け、車が「指名手配・捜査令状」データベースに照会されて、彼の運転するフォルクスワーゲン・ビートルが盗難車だということが発覚した。逮捕すると告げられたバンディは、その場を切り抜けるために警官の足を蹴り上げ、走って逃げた。警官は威嚇射撃をしてから彼を追いかけ、組みついた。銃を奪いあって格闘したが、最後には警官に組み伏せられて、逮捕された。盗難車の中には、フロリダ州立大学の女子学生の身分証が3人分、盗んだクレジットカードが21枚、盗んだテレビ1セットがあった。さらに、市販の黒縁メガネと格子柄のスラックスも見つかったが、これは以前に彼がジャクソンビルで「消防署のリチャード・バートン」に成りすますときに身に着けていたものだった。この時の警官は、FBIの10大最重要指名手配を逮捕したことに気づかないままバンディを容疑者として刑務所に護送しているが、その途中でバンディが「いっそ殺してくれればよかったのに」というのが聞こえたという。
裁判地がマイアミに変更になり、1979年6月にバンディは女子寮のカイ・オメガでの殺人および暴行の罪で起訴された。この裁判には世界中から250人の記者が押しかけ、初めて全米でテレビ中継された。国選弁護人が5人もついたにも関わらず、バンディはまた自己弁論のほとんどを自分1人でこなした。彼は裁判が始まった時から「悪意と不信感と誇大妄想のせいで、弁護人が何をするにもそれを妨害した」と後にネルソンは書いている。「テッドは殺人容疑をかけられていて、判決はおそらく死刑だった。彼にとって重要なのはとにかく自分が仕切ることだったのだろう」。
マイク・ミネルヴァによると、タラハシーのときの弁護団は、公判前に司法取引の可能性について協議を行っていた。その内容は、レヴィ、ボウマン、リーチの殺人をバンディが認めれば、75年の懲役刑で済むというものだった。一説によると「この裁判では敗色が濃厚だった」ため、検察もこの取引に前向きであった。一方でバンディはこの司法取引が死刑を免れる手段となるだけでなく、「先を見据えた手」だとみていた。つまり申し立てをして何年か時間を稼げば、証拠が崩れたり消えたりすることや、証人が亡くなったり証言を撤回することもありえるからだった。裁判において取り返しがつかないほど旗色が悪くなれば、有罪判決後にも司法取引の申し立てを破棄して無罪を目指すこともできた。しかしいよいよという時になって、バンディはこの取引を蹴った。「全世界を相手にして、お前は有罪だと言われることに向かい合わなければならなくなるということに気づいたのだ。彼にはそれが耐えられなかった」とミネルヴァは言う。
裁判では、カイ・オメガの寮生であるコニー・へスティングから、事件の日の夕方に寮のそばでバンディを見たという決定的な証言があったほか、ニタ・ニアリーも彼が凶器となったオーク材を握りしめて寮を抜け出すところを目撃していた。有罪の物理的証拠としてはバンディがリザの左臀部に残した噛み傷の分析を、法歯科医のリチャード・スーヴィロンとローウェル・レヴィンが行っており、傷跡がバンディの歯から採った型と一致したことを証言している。陪審は7時間足らずの審理で、1979年7月24日に、ボウマンとレヴィの殺人、3件の一級殺人の未遂罪(クライナー、チャンドラー、トーマスに対する暴行)、2件の住居侵入でバンディを有罪とした。そして裁判官のエドワード・カワートが殺人罪による死刑判決を言い渡した。
6ヵ月後にフロリダ州オーランドで二度目の裁判が開かれ、キンバリー・リーチの誘拐と殺人について審理が行われた。8時間に満たない審議によりバンディは再び有罪となったが、何より大きかったのはリーチを校庭から盗難車のバンに連れ出すところを目撃されていたことだった。物理的証拠としては、あまりない製造不良のあった服の繊維がそのバンとリーチの遺体から採取されており、この繊維はバンディが逮捕された時に着ていたジャケットのものと一致していた。
バンディは有罪判決後の罰則審査の段階で、結婚をしている。裁判所において、裁判官の立ち合いのもと結婚の宣言をすることで正式な結婚とみなされる、というフロリダ州の法律のあいまいさを逆手にとったのである。彼が頼ったのは元ワシントン州危機管理局の同僚、キャロル・アン・ブーンだった。彼女はバンディのそばにいるためフロリダ州に引っ越してきており、どちらの裁判でも彼の弁護側に立って性格証人となっていた。彼女が結婚の申し込みを受け入れたため、バンディは裁判所に対して2人が正式に結婚したと宣言した。
1980年2月10日、バンディは電気椅子での死刑判決を受けた。3度目だった。判決文が読み上げられると、彼は立ち上がって「陪審にお前らは間違っていると言ってやれ!」と叫んだといわれている。この3度目の判決は、のちに執行されるまでに9年近くを要することになるものである。
1982年10月、妻のブーンが女の子を出産し、バンディを父親として認知した。ライフォードの刑務所では夫婦でも面会は制限されていたが、収容者たちが金をためて看守にわいろを渡せば、女性の面会者と2人きりの時間を与えてくれることで有名だった。
リーチが殺された事件の裁判も最終弁論が終わり、長い上告手続きが始まった直後に、スティーヴン・ミショーとヒュー・エインズワースはバンディにインタビューを開始した。彼はついに白状したと思われることを嫌ったため、ほぼ一貫して第三者の視点からではあったが、初めて自分の犯罪や思考のプロセスを詳しく明かした。
彼はまず自身が生業にしていた泥棒の話から語り始めた。それはクレプファーがずっと疑っていたように、彼が持っているものはほぼすべて万引きしたものではないかという説を裏付けるものだった。「何が有難いって、盗んだら何でも本当に自分の持ち物なんだ。何かを手にいれるのは本当に楽しかったよ...欲しい、出かける、持っていく、なんだから」。持ち物になる、所有するという概念は、強姦や殺人にも通ずる重要な動機だった。彼に言わせれば、性的な暴行は犠牲者を「完全に所有」したいという彼の欲求を満たすものだった。初めは、女性たちを殺すのは「そちらのほうが好都合だった...つまり捕まる可能性を減らせるからだった。しかし次第に、殺人もまた「胸がおどること」の1つになった」「究極の所有ってのは、要するに、命を奪うということだろ」「そして...遺体を物理的に所有することだ」。
バンディはFBI行動分析チームの特別捜査官ウィリアム・ハグメイアーにも突っ込んだ話をしている。ハグメイアーはバンディが殺人から得る「深く、ほとんど神秘的なまでの満足感」に衝撃を受けている。「彼はしばらくしてからこう言った。殺人は単に情欲とか激情の結果の犯罪ではない」「持ち物になるんだ。その人の一部なんだ...〔犠牲者は〕その人の一部になって、永遠に1つになる...そして殺したり、死体を棄ててきた場所は神聖な土地になり、その人は何かあると戻ってくるんだ」。彼はハグメイアーに自分が「素人」であり、若いころは「衝動的な」殺人者だと考えていたと語っている。そしていつしか1974年にリンダ・ヒーリーを殺した頃のような「円熟した」あるいは「プレデター」〔捕食者〕と彼が名付けたステージに移行した。この例えは彼が1974年より前から殺人に手をそめていたことをほのめかすものだが、彼は決してそれをはっきりと認めることはなかった。
1984年7月、ライフォードの看守はバンディの独房に隠されていた金のこぎりの刃2枚を発見した。さらに部屋の窓にはめられた鉄棒のうち1本が窓枠から完全に切り離されており、石鹸をベースに彼が調合した接着剤でくっつけて元に戻されていた。数か月後、許可されていない鏡を部屋に隠し持っていることが発覚し、バンディはさらに別の部屋に移された。
この時期に、バンディは他の死刑囚たちのグループから襲われることも何度かあった。彼は暴行は受けたことを否定しているが、「集団レイプ」と表現している伝記もある通り、この行為を認めている囚人は多い。ほどなくして、バンディは有名な犯罪者であるジョン・ヒンクリーと不正に連絡をとり規律違反をとがめられている。1984年10月、バンディはロバート・ケッペルとコンタクトをとり、彼の収監後にワシントン州で続いていた事件(グリーンリバー・キラー)を解決するためにシリアルキラーの心理の専門家を自称するその知識を警察と共有した。ケッペルとグリーンリバー捜査班の刑事デイヴ・ライカートはバンディの意見を参考にしたが、結局ゲイリー・リッジウェイはそれから17年も野放しのままだった。ケッペルはこの聞き取りの結果をグリーンリバー事件の詳細なドキュメントとして出版したほか、後にミショーと協同して別の取材資料の考証にも参加した。バンディがゲイリー・リッジウェイのために考え出した「リバーマン」というニックネームは、後にケッペルの本のタイトルにも採用された。
1986年の初めに、カイ・オメガ裁判で下された死刑判決の執行日(3月4日)が決まった。最高裁判所はしばらく延期をするよう命令を出していたが、新しい執行日はすぐに決まった。4月に新しい執行日(7月2日)が公表された直後、ついにバンディはハグメイアーとネルソンに彼の凶行の全容(と2人が考えているもの)の告白を始めた。それは例えば、被害者が亡くなった後にその遺体に何かをしたのかということであった。バンディは、イサクアのテイラー山を再訪したときの、第二の犯罪現場を語っている。彼は何度もそこを訪れたのだが、そのたびに被害者に添い寝し、完全に腐敗が進んでしまうまで遺体に性行為をおこなった。ある時は、片道を何時間もかけて車で移動し、まるまる一晩を犯行現場で過ごすこともあった。ユタ州では、メリッサ・スミスの生気のない顔にメイクを施し、ローラ・エイミーの髪を繰り返し洗った。「時間さえあれば、何だって望む通りの姿になってくれた」と彼は言った。バンディは12人前後の犠牲者の首を金のこぎりで切り落とし、少なくともいくつかの頭(おそらく後にテイラー山で発見されたランコート、パークス、ボール、ヒーリーの4人分)をしばらく自分のアパートに保管していた。
7月2日、予定された死刑執行まであと15時間を切ったところで、第11巡回区控訴裁判所(Eleventh Circuit Court of Appeals)がその無期限の延期を命じ、複数の専門的な論点の再検討を行うためにカイ・オメガ事件の再審理を求めた。問題とされたのは、例えばバンディが裁判にかけられる上での精神病理学な責任能力、量刑審査の段階での終身刑と死刑で6対6にわかれた陪審団に対して決着をつけるように求めた裁判官の指示の誤りなどだったが、結局解決はされなかった。新しい執行日(1986年11月18日)が今度はリーチ事件の判決に対するものとして設定され、第11巡回区控訴裁判所は11月17日にその延期を命じた。1988年の半ばに第11巡回区裁判所がバンディの控訴に不利な判決を下し、12月には最高裁判所がそれを見直す申し立てを棄却した。それから数時間のうちに最終的な執行日1989年1月24日が公表された。バンディの控訴審での取り扱いは、重大な殺人事件としては前例がないほど駆け足だった。「一般に考えられているのとは反対に、裁判所はバンディの審議を可能な限り早く進めていた...。検察もバンディの弁護士が時間稼ぎをしたはずがないということは認めている。どこにいってもアークデーモンの処刑が遅いと考えて騒ぎ立てる人がいたが、テッド・バンディが乗っていたのはまさに特急車だったのである」。
上訴のカードを使い果たし、これ以上犯行を否認する理由もなくなったバンディは、捜査員たちにざっくばらんに語ることにした。彼はケッペルに、自分が真っ先に疑われていたワシントン州とオレゴン州の8件の殺人についてすべて自分が犯人だと認めた。さらにワシントン州で3人、オレゴン州で2人を殺した時のことを語ったが、犠牲者については(実際に知っていたとしてだが)身元を明かすことを拒んだ。テイラー山には5人目の遺体(ドナ・メイソン)も棄ててきたと話したが、頭は切り落としてエリザベス・クレプファーの家の暖炉(「事もあろうに、そこだからね。たぶん彼女もこれだけは許してないかもしれないな。かわいそうなリズ」)にくべたという。
ワシントン大学そばの明るい路地からジョーガン・ホーキンスを誘拐した時のことも、ありありと語っている。彼女を車まで誘い出し、そばに用意してあったバールで殴って気絶させ、手錠をかけてイサクアまで連れて行くと、そこで首を絞めて殺した。バンディは彼女の遺体と共に一晩を過ごし、3件の犯行を重ねた後にまたこの場所を再訪していた。そして、ホーキンスを誘拐して殺した翌朝にワシントン大学の路地に戻ってきたことも初めて明かした。大事件に対する捜査が行われている真っ只中に、彼はそばの駐車場でそのままになっていたホーキンスのイヤリングと靴一足を拾い集め、見つからないように持ち去った。「あの図々しさは表彰ものだ。今でも警察では語り草になっている」とケッペルは書いている。
「彼がイサクアの犯行現場について語る時は、すごい臨場感だった」とケッペルは言う。「すべてが目の前にあるみたいだった。あそこであまりに長い時間を過ごしたものだから、その頃のイメージが彼の中にあふれていた。彼はどんな時にも殺人になると完全に夢中になってしまうんだ」。ネルソンの印象も似たようなところがある。「彼の犯行が完全にミソジニー的であることに私は衝撃を受けた」「彼の告白を聞けば女性は怒り狂うだろう。バンディの話には思いやりというものが全くなく...犯行のときの細かいところを説明するのに夢中になっていた。彼にとって人を殺すことは、その一回一回が人生における成果なのだ」。
バンディはアイダホ州、ユタ州、コロラド州から来た刑事たちを前に、まだ警察も関知していない事件も含めて数えきれないほど殺した、と打ち明けた。ユタ州にいたときは、犠牲者をアパートの部屋まで運ぶことができたので「そこで実話系雑誌の表紙に描かれた場面の再現ができた」という。このとき彼がひそかに練っていた新たな戦略はすでに明らかだった。詳細については語ることを控え、不完全な情報をちらつかせることで、続きを求めて死刑がさらに延期されることを狙っていたのである。「コロラド州にも埋めてる死体がある」と彼は告白したが、やはり詳しいことは語らなかった。この新作戦はすぐに「テッドの犬のしつけスキーム」(Ted's bones-for-time scheme)とあだ名されたが、新しい情報に対する期待感は乏しく、死刑の執行予定を控えた当局の態度を硬化させただけだった。あるいは詳しく話した事件もあったが、何も新発見はなかった。コロラド州の刑事マット・リンドヴァルはそこに彼の葛藤をみる。つまり、情報を隠し立てせずに死刑を延期したいという欲望と「犠牲者が安らかに眠る本当の場所を知っているのは自分だけだという完全な所有」を維持したいという欲求が衝突していたのだという。
これ以上裁判所からは延期命令が出ないことがはっきりすると、バンディの支援者はただ一つ残った可能性である恩赦に向けてロビー活動を始めた。フロリダ州の若き弁護士でありバンディが最後に愛した人と言われるダイアナ・ウェイナーも支援者の1人だった。彼女はコロラド州とユタ州の被害者遺族たちに、バンディからさらに情報を引き出すためフロリダ州知事ボブ・マルティネスに死刑の延期を嘆願するように求めた。それに応じる遺族は皆無だった。ネルソンによれば「遺族は犠牲者は一人残らず亡くなっており、それもテッドが殺したのだと考えていた」「告白など求めていなかったのだ」。州知事のマルティネスも、この件に関してこれ以上の延期には反対するという態度を明らかにした。記者会見では「我々はいまの方針に手心を加える予定はない」「彼が被害者の遺体を交渉材料にして自分の命を永らえさせようとしているなら、見下げ果てた男と言うほかない」と語った。
ブーンは裁判中ずっとバンディを擁護し、彼の無実を主張し続けたが、一転して彼が自ら有罪だと認めた(実際にそうだった)ことで「完全に裏切られた」と感じた。彼女は娘を連れてワシントンに戻り、死刑執行の日にバンディからかかってきた電話にも取り次ぎを拒否した。ブーンは「彼とダイアナの関係にも傷ついていた」とネルソンはいう。「そして執行直前になって急にあらいざらい告白したことにも失望したのだった」。
ハグメイアーは他の捜査官とともにバンディの最後の聴取にも立ち会っている。死刑執行の前日、バンディは自殺をほのめかしていた。「この国が自分が死ぬところを見守って満足するのに耐えられなかったのだ」とハグメイアーは語っている。
バンディは1989年1月24日の東部標準時で午前7時16分にライフォードの電気椅子の上で死んだ。42歳だった。死刑が執行されると、一説によると20人の非番の警官を含めて、刑務所につめかけた何百人という人が大騒ぎになり、道路をはさんで向かいにある牧草地で歌い、踊り、花火をあげた。刑務所から彼の遺体を乗せた白い葬儀車が出発すると、ひときわ大きな歓声があがった。フロリダ州グレインズヴィルで火葬された後で、遺灰は彼の遺言に従い、ワシントン州にあるカスケード山脈の不特定の場所に撒かれた。
バンディは珍しいほど手法が体系的で計算高い犯罪者であり、長期にわたって身元の特定や逮捕を逃れるために当局の方法論についても該博な知識を有していた。彼の犯行現場は、地理的に非常に広い範囲に及んだ。絶望的なまでに広いエリアで管轄をまたがって大量の捜査員が動員されたが、全員が同じ人間を追いかけているということがわかる頃には、被害者の数は少なくとも20人に達していた。女性を襲う手段としては鈍器による外傷か絞殺のどちらかを選んだが、この2つは比較的物音が出にくく、市販されている家庭用品でも十分にその目的を達することができた。音が出たり、銃弾の証拠が残ることを嫌って、銃器はあえて使わなかった。バンディは「きちょうめんな研究者」であり、犠牲者を捕まえたり遺棄するのに安全な場所を探すときには、ごく細かいところまで周りに目を配った。そして物理的な証拠を残さないことにかけては並外れた技術を持っていた。犯行現場からは指紋どころか、それ以外の有罪を証明する動かぬ証拠が見つかったことはなく、彼は長期にわたる裁判で自分の無実を主張するためにこの事実を繰り返し強調した。
当局にとってさらに厄介だったのは、バンディの生まれつき無個性的な身体的特徴だった。つまり、彼はほとんど自由自在に自分の外見を変えられるカメレオンのような能力を持っていたのである。早い段階から、警察は目撃者に彼の写真を見せることの無意味さに匙を投げていた。彼を撮影した写真はほぼすべて、あたかも一枚ごとに見た目が違っていたのである。面と向かいあっても「彼は表情によって全体の印象がくるくる変わるので、同じ人間を見ているはずなのにそれにすら自信が持てなくなる瞬間があった」「彼は本物の取り替え子だ」とダロンシュ事件の裁判官スチュワート・ハンソン・ジュニアも語っている。バンディもこの珍しい特性に自覚的であり、積極的に利用した。ひげや髪型をすこしいじるだけで、必要に応じて見た目を大きく変えることができたのである。彼の首にはほくろが1つあり、それはわかりやすい目印になってしまうので、タートルネックの服を着て、隠していた。彼のフォルクスワーゲン・ビートルもまた記憶には残りにくかった。車の外見は目撃者によって表現がさまざまで、メタリックだとかそうでないとか、カラーも褐色、ブロンズ色、ライトブラウン、ダークブラウンと証言が一致しなかった。
バンディの仕事のやり方は時が経つにつれ体系的になり洗練されていった。これはFBIの専門家によれば連続殺人犯にはありがちなことである。初期には、夜遅くに無理やり部屋に侵入し、寝ていた被害者を鈍器で襲っていた。被害者の中には鋭利でない道具で性的な暴行を受けた女性もいた。またヒーリーを除く全員が、バンディが現場を離れる時には、失神しているか死んだ状態でその場に横たわったままにされた。彼の方法論が進化するにつれ、バンディのターゲットや犯行現場の選び方はさらに体系的になった。様々な作戦を立てて、あらかじめ道具(たいていバール)を用意している車のそばまで被害者を誘い出した。多くの事例で彼は足にギプスをはめたり腕をスリングで吊っており、時には足を引きずって松葉杖をついていた。そして何かを車に運ぶのを手伝ってくれないかと頼むのである。バンディは被害者の女性からハンサムでカリスマ的と思われることが多く、彼のほうでもその特徴を前面に押し出して信頼を獲得した。「生命の宿っていないシルクフラワーがミツバチをだますように、バンディは女性を誘い出した」とミショーは書いている。ひとたび彼の車に近づいたり中に入った被害者は、力で圧倒されるか道具で殴られ、手錠で自由が奪われた。ほとんどの女性が性的暴行を受けて、絞殺された。第一の犯行現場でそこまで行く場合もあれば、そこからだいぶ距離のある、事前に決めた第二の犯行現場まで連れて行かれる場合もあった(こちらの方が一般的だった)。その容姿や魅力が通じない状況では、警官か消防士のふりをして官憲を装った。末期に連続殺人が行われたフロリダ州では、おそらく逃亡のストレスから眠っている女性を襲うやり口には見境がなく、それまでに培われた洗練性はみられなかった。
第二の犯行現場では、被害者の衣服を脱がせて後でそれを燃やしたが、少なくとも1件だけ(カニンガム)はグッドウィル・インダストリーズの回収ボックスに服を入れている。バンディは服を脱がせるのは儀式としての意味があると説明したが、犯行現場に自分に関わる物を残す可能性をなくすという現実的な理由もあった(皮肉なことに、キンバリー・リーチの殺人の場合は、彼自身の服から採取された繊維の製造不良が決定的な証拠になってしまった)。彼は死体愛好のためこの第二の犯行現場に再訪することがあり、その時は遺体を身づくろいしたり飾り立てた。そのため家族が見たことのないような服を着たり、マニキュアをつけている状態で遺体が発見される被害者もいた。バンディは被害者女性の大半のポラロイド写真を撮っている。「あんただって何か正しいことを一生懸命やっているなら」「思い出せなくなるのはいやだろう」と彼はハグマイヤーに語った。大量にアルコールを消費することは「不可欠な要素」だとはケッペルにも、後にミショーにも語った言葉だ。獲物をさがして徘徊するには「飲みすぎるほど呑む」必要があった。それは彼の心の中の「存在」が衝動的な行動を咎める、という「支配的な人格」を馴致し、心の抑制を「十分に解く」ためだった。
バンディの犠牲者と認定されているのは全員が白人の女性であり、ほとんどがミドルクラスである。ほぼ全員の年齢が15歳から25歳の間で、女子大学生が大半を占める。彼は以前に会ったことがあるかもしれない人間には決して近づかなかったようだ(死刑執行前の最期の会話で、バンディはクレプファーに「自分のなかに培われた病的な感覚がそれと教える」女性からはあえて距離をとっていた、と話している)。ルールが指摘しているように、身元が分かっている犠牲者のほとんどが、ステファニー・ブルックスのようにストレートの長い髪を額の真ん中で分けていた。ブルックスはかつてバンディを拒絶した女性で、彼は後にあえて彼女と再交際してから関係を断つことで復讐をした。この初めてのガールフレンドにバンディが向けた敵意が、その後長く続く凶行の引きがねとなり、彼女に似た女性ばかりをターゲットにする原因だとルールは推測している。もっともバンディはこの仮説を否定している。「あるのは...ただ若くて魅力的だという一般的な基準だけだ」とヒュー・エインズワースに語っている。「女の子たちがみんなそっくりとかそういうたわごとを言ってくる奴が多すぎる...およそあらゆるものは似ていないんだ...身体的にみればもう全くちがうといっていい」。しかし、ターゲットを選ぶにあたって若さと美しさは「絶対に必要な基準」である事は彼も認めている。
バンディの死後、アン・ルールはあることに驚かされ、また心を痛めた。彼が亡くなったことに深く落胆していることを手紙に書いたり、電話で伝えてくる「感受性豊かで、知性的で、心やさしい若い女性」が大勢いたのである。多くがバンディと文通をしており「それぞれに自分は彼にとって唯一の存在だと信じていた」。彼が亡くなったことでノイローゼになったという女性も複数いた。「死後もなお、テッドは女性を傷つけているのだ」とルールは書いている。「よくなるためには、自分が詐欺の達人にかつがれているのだという事を理解しなければいけない。彼女たちは存在しない影のような男のことで悲しんでいるのだから」。